スーツは人間の生体をなぞったリアルな完成品として洋の文化を象徴するものであり、一方和服は着られることにより完成する半製品として和の文化を象徴するものでありますが、それら東西文化の違いをさらに一層よく理解するために、身に付けるもの以外のもので比較検証したいと思います。
 
 ギリシア彫刻はルネッサンスにおいて新たに息吹を吹き込まれ、例えば若きミケランジェロの代表作「ダビデ」は非常にリアルに人間の体をなぞって、生き生きとした姿を生み出しています。一方同じギリシア彫刻が遥か遠く日本へも伝わり、仏像彫刻の中にも様々な影響を及ぼしましたが、しかしどの仏像も西洋の持つ立体的な写実性はなく、静的平面的と言わざるを得ません。
ダビデ像
金剛力士像
 
ビーナスの誕生
 さらに近世社会文化の花が開いたイタリア・ルネッサンスと桃山・元禄文化では、ヘレニズム文化から生れたギリシア・風の塔に彫られた西風の神ゼフュロスがボッティチェリの「ビーナスの誕生」に人間と何ら姿形の変わらぬ様に描かれ(リアルな人体に翼がついている)、北風の神ボレアスが東に伝われば、人間とは相容れぬ創造物として俵屋宗達の風神図として描かれています。


 起源が同じギリシアの、神という概念上のものでありながら西洋ではリアリスティックに人間同様に彫られ、描かれ、東洋では想像的で概念的な創造物として彫られ、描かれてしまう、民族により文化というものの現れ方(表現方法)の違いを実感せざるを得ません。
 これは日本の神が自然と結びつく神であるのに対し、西洋の神が人に結びつく人格神であることが関係しているのでしょうか。
風神図
 
 例えばレオナルド・ダ・ビンチのフレスコ画「最後の晩餐」と、日本で同様芸術家と思われる本阿弥光悦・俵屋宗達の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を比較してみるとダ・ビンチの奥行感のある写実性に対し、光悦の極く平面的な絵ながらも本当に鶴が飛び去って行こうとする情景を目の前に浮かび上がらせてしまう不思議なリアリティさの中に、民族の相違を感ぜずにはいられません。
最後の晩餐
鶴下絵三十六歌仙和歌巻
 
最後の審判
  
 さらに物語性に富んだミケランジェロのフレスコ画「最後の審判」および「天地創造」と日本の各種絵巻物を比較してみると、上記相違の他に前者は物語の各シーンが一面に静的に描かれているのに対し、後者は絵巻を披きつ巻くという鑑賞の仕方にも現れているように時間の流れが重視されています。人の情感が入り込む余地のない西洋的なリアリティさ(作品自体完成品で完結している)と、平面的でデザイン的ながらも鑑賞者をして想像力を喚起させ現実の情景として納得させてしまう日本芸術のある意味のリアリティさは、文化の相違の象徴的なものではないでしょうか。

天地創造
 
 さらに音楽の舞台では「オペラ」と「能舞台」(例えばシャリアピンのボリスゴドノフやマリアカラスのノルマは人間の苦悩を現実の場と同じようにリアルに歌い上げある種の一つの造形物を作りあげているのに対し、能面という動かぬ一つの顔を、鑑賞者をして悲しくも嬉しくもある表情に読み取らせてしまう聴衆参加型空間の相違)、或いは現代音楽のメシアンの「トウーランガリア交響曲」と武満徹の「ノベンバー ステップス」、さらに同じオーケストラ曲を演奏してもウイーンフィルが楽器個々の音色を際立たせて彫りの深い演奏をするのに対し、日本のオーケストラは全体の調和が優先されて流れるような情感を大事にすると言う意味で日本的である、等々どれを比較しても、ヨーロッパ文化と日本文化の違いが同じ様相をもって現れて来るのではないでしょうか。
 
 これらをまとめてみると、洋の文化がそれ自体完成品であることを要求されるのに対し、和の文化は鑑賞者が作品の中に参加して初めて作品として完成するのではないでしょうか。和辻哲郎は「ギリシャ人が見ることにおいて感じたのに対して、日本人は感ずることにおいて見た」とその著書「風土」の中で言っております。またヨーロッパ芸術が「規則にかなうことを特徴とする」のに対し、日本芸術が統一感を生み出すのは「気合い」であると言っております。

 さらに我々生活文化の中で端的にその違いが現れているものとして、自動車があります。
 
 欧州車は複雑な曲線を持つ車が多いのに対し、日本車は平面的に板金加工された車が多いのは何故でしょうか。平面加工の方が簡単で効率的かつ安価に仕上がるのも重要な理由でしょうが、上記日本文化の特性が表れているとも思われます。しかしながら日本文化の平面性・概念性に対しヨーロッパ文化の立体性・リアリティ性による複雑で立体的な曲線の持つ美しさが、私たち日本人の持ち合わせない美的心象としてその心を魅了しており、日本車の性能が欧州車を凌駕しかけているにもかかわらず、なお高価な欧州車が日本人を魅了し続けているとしたら、車も洋服と同じ洋の文化から発生したものであるという認識のもと、洋の概念を取入れた本物の車作りをするところがあってもいいような気もしますが。
欧州車
 

 以上私達は文化の違いを検証、スーツが他の洋の文化と何ら変わることなくその特徴を継承しているものだということを理解することが出来たと思います。


 さてほとんど洋服文化一本となってしまった今日の日本において、私達日本人は洋服の美しさを充分引出して、西洋文化として或いは日本文化として変容させて着こなしているのでしょうか。
 
 洋の文化そのものをそのまま取り入れるのか、或いは日本人なりにその文化に馴染ませつつ発展させていくのか。昔古代ローマ人がギリシャ文化を取り入れ、例えばギリシャ彫刻の模倣品を沢山作りましたが、ギリシャ彫刻の生き生きとした輝きに対し、ローマ彫刻の形骸化が言われております。単にものを模倣するだけでなく、民族の精神まで学び取らなければ真の文化の継承は難しい。さらにイタリア・ルネッサンスにおいてギリシャ文化の復興が叫ばれましたがどうでしたでしょうか。ギリシャ文芸の数学的側面はめざましい発展をとげましたが、ギリシャ芸術の直感的な清冽さは持ちえなかったと言われております。しかし彼らは彼らの民族素質のなかに取り込み咀嚼し、自分達の文化として新しく発展させていった、という意味では遥かギリシャ文化が日本文化の中に変容して取り込まれて行ったのと同じではありましょう。
 
 この意味では他民族文化としてのスーツも、その文化的内容を充分咀嚼吟味されたうえ、やがて日本文化として開花変容せしめられていくものでありましょう。しかしながら日本人が着物と同じようにその魅力を充分引出して着こなした時初めて、スーツは日本文化として花を開かせることが出来たと理解すれば、現状その咀嚼はまだまだ充分とは言えません。そのためには、スーツについて一層努力理解していくことが重要ではないでしょうか。
 
 それでは洋の文化たるスーツの本質を理解するためには何が重要か。私達は、「それはスーツを作るという技術の中に宿されている」という認識のもと、「その技術を変容させずそのままの形で取り込むことが最も重要である」という信念を抱き、その困難さに取り組んでまいりました。

 私達は技術の中に隠された洋の文化の理解に少しでもお役に立てればと、ここにその技術の一端を見ていただくことにした次第です。